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例題
A社とB社が、とある家庭用品でシェアを奪い合っています。ネットの掲示板では、こんな噂が流れています。
・「A社は人を雇い入れて、自社にとって都合のいいことやB社の製品の悪口をブログなどに書かせ、さも個人が書いたように見せ掛けている。悪質な自作自演だ」
・「いや、その噂自体がB社によるA社への中傷だ。じつは自作自演をしているのはB社なのだ」
ところがある日、A社が本当に人を雇い入れてそのような自作自演をしていたことが大々的に報じられました。ここまでは事実だとします。さて、こんなことを言う人がいます。
「ほら見たことか、A社は自作自演をするようなずるい会社だったのだ。やはりB社はそんなことはしていないのだ」
さて、どうでしょう? この言い分、何か妙だと思いませんか。
ここがおかしい――
A社が自作自演をしていたからといって、なぜB社が自作自演をしていないと言えるのでしょうか?
解説
A社が自作自演をしていたという事実と、B社が自作自演をしているかも知れないという疑惑の真偽は、全く関係がありません。
A社の自作自演が明るみになる前に考えられた可能性は、
a・「どちらも自作自演などしていない」
b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」
d・「A社もB社も自作自演をしている」
の4通りです。事実が分かった後はaとcが消えますが、現時点でもまだ
b'・「(A社はしているが)B社は自作自演をしていない」
d'・「(A社もしているが)B社も自作自演をしている」
の2通りが考えられるはずです。「A社が自作自演をしているかいないか」と「B社がしているかいないか」が無関係であることがお分かりいただけると思います。これらは高校の数学で習うところの独立事象です。
ところがなぜか時々、「対立関係にある2者のうち、常にどちらか一方が善で、一方が悪である」と、何でも善悪二元論で捉えてしまう人がいるようです。その人達はこの例のケースを
b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」
の二者択一であるかのように誤解します。そしてA社の自作自演が明るみになった時点でcが消え、「B社は自作自演をしていない」という間違った結論に至るわけです。
ちょっと待った!
ただし、あくまで「現時点ではB社は自作自演をしていないと言い切れない」というだけです。B社が自作自演をしたという証拠も見つかっていない以上、そのような噂を軽はずみに信じたり、他人に流したりすべきではありません。そのような行為は言うなれば、推定無罪の原則に反します。
所詮、現時点では根も葉もない噂。せいぜいあなたが個人的に、A社だけでなくB社の製品を扱ったブログに対しても同様の注意を払う程度に留めるべきです。
筆者の見解
シーソーは、どちらか一方が上に来れば残る一方が下に来ます。どちらか一方が善なら、対立する側は悪。まるでシーソーのような考え方が、間違った結論を導き出す元になることがしばしばあります。
上記の例は非常に当たり前のことを言っているのですが、厄介な点は、対立している2者のどちらか一方に自分が属している場合、ついつい相手の側に非があると「ほら見ろ、そんな悪いことをするのは向こうに決まっている。自分達の側はそんなことをするはずがない」という、客観性を大きく損ねた思考に陥ってしまうことです。ここでも好き嫌いレベルの感情論が、論理的思考を妨げているわけです。
国家や人種、民族、政治主義、宗教など、昔から世界レベルの対立構図は多々あります。さらには世間を見渡すと、どのOSが好きかだとか、どこの会社のゲーム機が好きだとか、じつに些細なことまで対立の構図を作りたがる人がいるようです。それらの争いでもやはり、「一方がよければ一方が悪い」といったシーソーのような考え方がしばしば行われているのではないでしょうか。
さらに言えば、「そうした対立構図のどちらか一方に自分が属することに、並ならぬ執着を抱く」傾向を持つ人というのが、少なからずいるような気がしてなりません。
演習
今後しばらく、ネットや新聞、テレビなどで、あなたが対立構図を見聞きしたら、それをリストアップしてください(少なくとも3つ)。
※解答例は割愛。
例題
前回の例題の続きです。
カーデシアとベイジョーの間には現在、和平が成立しています。なのにベイジョー人は未だにテロ組織を結成して、カーデシアへの攻撃を止めません。しかし「和平が成立しているのに攻撃を行うなんて、ベイジョー人は酷い連中である」と単純に結論することは出来ませんでした。なぜなら「カーデシア人は友好的だったベイジョーを占領し、植民地として支配してしまった」という事実を見落としていたからです。
さて、今回はもう隠された事実はないと仮定します。ここで誰かが言います。
「カーデシア人はそんな悪いことをしていたのだから、ベイジョーのテロリストに報復を受けるのは当然だ」
この結論に、相槌を打ってしまってよいものでしょうか?
ここがおかしい――
上述のように既に和平が結ばれているのですから、報復が理由とは言え無抵抗の相手を攻撃するのは違法です。考えてみれば当然の話なのですが、カーデシア人が過去にベイジョーを不当に侵略していたという過去を知ってしまうと違法な報復であっても大義名分があるように思えてしまいます。
過去のカーデシアの不当な行為はベイジョーのテロリストに対して情状酌量の余地を与えるでしょう。しかしその違法な行為の正当化までは出来ません。
解説
「感情論に流れてしまって、既に分かりきった一番肝心なことを見落としてしまった」
人間の感情は時として目の前の事実、この場合は「既に和平が結ばれ、一部のベイジョー人による攻撃行為がもはや単なるテロでしかないということ」を見えにくくしてしまうことがあります。判断に十分な確定情報が与えられているのにその意味を正しく汲み取らないのであれば、間違った結論に行き着くのは当然です。
また次の3つのケースを考えてみてください。
1・単なる快楽目当ての殺人。
2・犯人が過去に被害者に大きな苦痛を受けていたなど、怨恨による殺人。
3・ナイフで刺されそうになった人が咄嗟に払い除けたら、相手が死んでしまった。
1は情状の余地がない殺人事件。2は殺人ですが情状の余地はあるでしょう。3は正当防衛ですから無罪となることもあります。こう書くと心情的には「1は間違い」「2,3は許される」と言ってしまいそうになりますが、しかしそうではないはずです。あくまで「1,2は殺人事件」「3は正当防衛」であり、2が正しく思えてしまうのは単に感情に流されているからです。
ちょっと待った!
例題は言うまでもなく、テロという違法行為が問題なだけです。すなわち手段が間違っていることがよくないのです。ベイジョー人がカーデシアに対して合法的な抗議活動を起こすことは何の問題もありません。
筆者の見解
人間、十分に正しい情報が与えられていてもなお、そこから間違った結論を導き出してしまいます。それは単純に論理的思考力が欠落している場合もあれば、感情的になってどちらかに味方してしまっている場合もあります。昔から判官贔屓という言葉だってあるくらいです。
「そんなこと言って、うっかり相手に譲歩して、結局相手が正しいことになってしまったらどうするんだ」と危惧する人もいるかも知れません。が、心配しなくとも、本当に間違った行為は感情を排して論理的に考えてもやはり間違っているのです。
人間は感情の動物ではありますが、とにかくまずは落ち着いて、頭を冷やして考えてみましょう。
なお「どちらが先に手を出したか」「どちらがどれだけ酷いことをしたか」の比較は感情論に陥りやすい傾向にあるようです。それよりも、「実際に行使した手段が正しいかどうか」をよく見極めることが大切だと思います。
演習
あなたに対して、A君が下記のようなことを言います。感情論抜きでその是非を考察してください。
A「おまえの母ちゃんデベソ」
※解答例はこちら。
・「うちの母親はそもそもデベソじゃない。だからA君の言うことは間違っている」
・「はい、その通りです」
・「相手はそれを確認する手段がない。憶測に基いて言っているだけだ」
などと考えたのではないでしょうか。すなわち「おまえの母ちゃんデベソ」という命題自体の是非、もしくはA君の論旨の立て方の是非を考察したわけです。しかしそれ以前に
「A君の言ったことは、事実かどうか以前にそもそもただの悪口である」ということが一番の大問題のはずです。
あなた自身の感情を抑えることは大切ですが、それが行き過ぎて「そもそも人の感情を不愉快にするような行為自体、世間ではやってはいけない行為とされている」という大前提を見落としてはいけません。
ネットなどで、一件筋が通っているようだが結局は悪口に過ぎない発言を目にしたことはないでしょうか?