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例題
前回の例題の続きです。
カーデシアとベイジョーの間には現在、和平が成立しています。なのにベイジョー人は未だにテロ組織を結成して、カーデシアへの攻撃を止めません。しかし「和平が成立しているのに攻撃を行うなんて、ベイジョー人は酷い連中である」と単純に結論することは出来ませんでした。なぜなら「カーデシア人は友好的だったベイジョーを占領し、植民地として支配してしまった」という事実を見落としていたからです。
さて、今回はもう隠された事実はないと仮定します。ここで誰かが言います。
「カーデシア人はそんな悪いことをしていたのだから、ベイジョーのテロリストに報復を受けるのは当然だ」
この結論に、相槌を打ってしまってよいものでしょうか?
ここがおかしい――
上述のように既に和平が結ばれているのですから、報復が理由とは言え無抵抗の相手を攻撃するのは違法です。考えてみれば当然の話なのですが、カーデシア人が過去にベイジョーを不当に侵略していたという過去を知ってしまうと違法な報復であっても大義名分があるように思えてしまいます。
過去のカーデシアの不当な行為はベイジョーのテロリストに対して情状酌量の余地を与えるでしょう。しかしその違法な行為の正当化までは出来ません。
解説
「感情論に流れてしまって、既に分かりきった一番肝心なことを見落としてしまった」
人間の感情は時として目の前の事実、この場合は「既に和平が結ばれ、一部のベイジョー人による攻撃行為がもはや単なるテロでしかないということ」を見えにくくしてしまうことがあります。判断に十分な確定情報が与えられているのにその意味を正しく汲み取らないのであれば、間違った結論に行き着くのは当然です。
また次の3つのケースを考えてみてください。
1・単なる快楽目当ての殺人。
2・犯人が過去に被害者に大きな苦痛を受けていたなど、怨恨による殺人。
3・ナイフで刺されそうになった人が咄嗟に払い除けたら、相手が死んでしまった。
1は情状の余地がない殺人事件。2は殺人ですが情状の余地はあるでしょう。3は正当防衛ですから無罪となることもあります。こう書くと心情的には「1は間違い」「2,3は許される」と言ってしまいそうになりますが、しかしそうではないはずです。あくまで「1,2は殺人事件」「3は正当防衛」であり、2が正しく思えてしまうのは単に感情に流されているからです。
ちょっと待った!
例題は言うまでもなく、テロという違法行為が問題なだけです。すなわち手段が間違っていることがよくないのです。ベイジョー人がカーデシアに対して合法的な抗議活動を起こすことは何の問題もありません。
筆者の見解
人間、十分に正しい情報が与えられていてもなお、そこから間違った結論を導き出してしまいます。それは単純に論理的思考力が欠落している場合もあれば、感情的になってどちらかに味方してしまっている場合もあります。昔から判官贔屓という言葉だってあるくらいです。
「そんなこと言って、うっかり相手に譲歩して、結局相手が正しいことになってしまったらどうするんだ」と危惧する人もいるかも知れません。が、心配しなくとも、本当に間違った行為は感情を排して論理的に考えてもやはり間違っているのです。
人間は感情の動物ではありますが、とにかくまずは落ち着いて、頭を冷やして考えてみましょう。
なお「どちらが先に手を出したか」「どちらがどれだけ酷いことをしたか」の比較は感情論に陥りやすい傾向にあるようです。それよりも、「実際に行使した手段が正しいかどうか」をよく見極めることが大切だと思います。
演習
あなたに対して、A君が下記のようなことを言います。感情論抜きでその是非を考察してください。
A「おまえの母ちゃんデベソ」
※解答例はこちら。
・「うちの母親はそもそもデベソじゃない。だからA君の言うことは間違っている」
・「はい、その通りです」
・「相手はそれを確認する手段がない。憶測に基いて言っているだけだ」
などと考えたのではないでしょうか。すなわち「おまえの母ちゃんデベソ」という命題自体の是非、もしくはA君の論旨の立て方の是非を考察したわけです。しかしそれ以前に
「A君の言ったことは、事実かどうか以前にそもそもただの悪口である」ということが一番の大問題のはずです。
あなた自身の感情を抑えることは大切ですが、それが行き過ぎて「そもそも人の感情を不愉快にするような行為自体、世間ではやってはいけない行為とされている」という大前提を見落としてはいけません。
ネットなどで、一件筋が通っているようだが結局は悪口に過ぎない発言を目にしたことはないでしょうか?