[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
例題
A社とB社が、とある家庭用品でシェアを奪い合っています。ネットの掲示板では、こんな噂が流れています。
・「A社は人を雇い入れて、自社にとって都合のいいことやB社の製品の悪口をブログなどに書かせ、さも個人が書いたように見せ掛けている。悪質な自作自演だ」
・「いや、その噂自体がB社によるA社への中傷だ。じつは自作自演をしているのはB社なのだ」
ところがある日、A社が本当に人を雇い入れてそのような自作自演をしていたことが大々的に報じられました。ここまでは事実だとします。さて、こんなことを言う人がいます。
「ほら見たことか、A社は自作自演をするようなずるい会社だったのだ。やはりB社はそんなことはしていないのだ」
さて、どうでしょう? この言い分、何か妙だと思いませんか。
ここがおかしい――
A社が自作自演をしていたからといって、なぜB社が自作自演をしていないと言えるのでしょうか?
解説
A社が自作自演をしていたという事実と、B社が自作自演をしているかも知れないという疑惑の真偽は、全く関係がありません。
A社の自作自演が明るみになる前に考えられた可能性は、
a・「どちらも自作自演などしていない」
b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」
d・「A社もB社も自作自演をしている」
の4通りです。事実が分かった後はaとcが消えますが、現時点でもまだ
b'・「(A社はしているが)B社は自作自演をしていない」
d'・「(A社もしているが)B社も自作自演をしている」
の2通りが考えられるはずです。「A社が自作自演をしているかいないか」と「B社がしているかいないか」が無関係であることがお分かりいただけると思います。これらは高校の数学で習うところの独立事象です。
ところがなぜか時々、「対立関係にある2者のうち、常にどちらか一方が善で、一方が悪である」と、何でも善悪二元論で捉えてしまう人がいるようです。その人達はこの例のケースを
b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」
の二者択一であるかのように誤解します。そしてA社の自作自演が明るみになった時点でcが消え、「B社は自作自演をしていない」という間違った結論に至るわけです。
ちょっと待った!
ただし、あくまで「現時点ではB社は自作自演をしていないと言い切れない」というだけです。B社が自作自演をしたという証拠も見つかっていない以上、そのような噂を軽はずみに信じたり、他人に流したりすべきではありません。そのような行為は言うなれば、推定無罪の原則に反します。
所詮、現時点では根も葉もない噂。せいぜいあなたが個人的に、A社だけでなくB社の製品を扱ったブログに対しても同様の注意を払う程度に留めるべきです。
筆者の見解
シーソーは、どちらか一方が上に来れば残る一方が下に来ます。どちらか一方が善なら、対立する側は悪。まるでシーソーのような考え方が、間違った結論を導き出す元になることがしばしばあります。
上記の例は非常に当たり前のことを言っているのですが、厄介な点は、対立している2者のどちらか一方に自分が属している場合、ついつい相手の側に非があると「ほら見ろ、そんな悪いことをするのは向こうに決まっている。自分達の側はそんなことをするはずがない」という、客観性を大きく損ねた思考に陥ってしまうことです。ここでも好き嫌いレベルの感情論が、論理的思考を妨げているわけです。
国家や人種、民族、政治主義、宗教など、昔から世界レベルの対立構図は多々あります。さらには世間を見渡すと、どのOSが好きかだとか、どこの会社のゲーム機が好きだとか、じつに些細なことまで対立の構図を作りたがる人がいるようです。それらの争いでもやはり、「一方がよければ一方が悪い」といったシーソーのような考え方がしばしば行われているのではないでしょうか。
さらに言えば、「そうした対立構図のどちらか一方に自分が属することに、並ならぬ執着を抱く」傾向を持つ人というのが、少なからずいるような気がしてなりません。
演習
今後しばらく、ネットや新聞、テレビなどで、あなたが対立構図を見聞きしたら、それをリストアップしてください(少なくとも3つ)。
※解答例は割愛。