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メディア――そこは最後のフロンティア。

ここはクイズ形式の例題を読み解いてみることで、
ネットやメディアに潜む罠について考えようというサイトです。
初めての方はぜひ「ご挨拶」を。
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例題
とてもシンプルな例題です。真偽について考察してください。

「古代ローマ人は、人殺しをした」
→「セネカは古代ローマ人である(ここまでは事実とする)」
→「なので、古代ローマ人であるセネカもまた人殺しである」


――果たして、是か非か?


じつは――
上記の例題は意地悪問題です。なぜなら1つ目の文章が2つの意味に取れるからです。

a・「少なくとも1人以上の古代ローマ人は、人殺しをした」
b・「全ての古代ローマ人は、人殺しをした」

もしbが真であればセネカも人殺しですが、aのみが真であればそうではありません。



解説
「少なくとも1人以上の○○が~であること」と、「全ての○○が~であること」は厳密に区別しなくてはいけません。

数学(論理学)の世界では両者を「∃」と「∀」という記号で区別します。わざわざ記号があるくらいですから、それだけこの区別が重要だということは察しがつきます。

a・「∃古代ローマ人は、人殺しをした」
b・「∀古代ローマ人は、人殺しをした」

これまた数学用語で「集合」という言葉がありますが、「ローマ人」という「集合」の中に「セネカ」が「要素」として含まれていることになります。

もしbが真であれば、

e_and_a1.png










「殺人者」という大きな集合の中に「ローマ人」という集合全体が含まれるわけですから、「セネカ」も「殺人者」に含まれます。

一方、もしaのみが真であれば、

e_and_a2.png










「ローマ人」と「殺人者」という別々の集合があり、なおかつ両方に属する「積集合」があるということだけが言えます。「ローマ人でなおかつ殺人者」という「積集合」の中に「セネカ」が含まれているかどうかは分かりません。

しかし、うっかりしていると「∃と∀を混同」してしまって、bでなくaのみが真であるのに「セネカも殺人者である」かのように錯覚してしまったり、酷い場合には「古代ローマ人全員が殺人者である」と極論してしまったりすることになります。


ちょっと待った!
例えばこういう例。

・○月×日の△△行きツアーに参加した10人のうち、1人は田中さんだった。
・参加者10人のうち9人が食中毒になったが、1人は食中毒にならなかった。

について、

1・「全ての参加者が食中毒になったわけではない」
→「なので、現時点では田中さんが食中毒になったとは限らない」

と言うことは可能です(これが今回のテーマ)。しかし、

2・「全ての参加者が食中毒になったわけではない」
→「なのでこのツアーと食中毒は関係ない」

とは言えません(今回のテーマの対象外)。∃と∀を厳密に区別して考えることは、入手した情報の持つ意味そのものを正しく理解するために必要です。しかし、その事実から何が類推出来るかとなると、別問題です。


筆者の見解
それでも「∃と∀の混同」は避けるべきです。そもそも与えられた情報の意味を間違って解釈してしまってはどうしようもないからです。

途中の理屈がどれだけ正しくても、推論の土台となる情報についてその意味を間違って解釈しているのでは正しい結論が得られるはずもありません。

また、「∃と∀の混同」は意図的に煽動に用いることが出来るため、その点でも警戒した方がよいです。詳細はこちら


演習
「少なくとも1人の○○は~である」
「全ての○○は~である」

○○と~に自由に単語を当て嵌め、少なくとも3つ文章を作ってください。




※その後、こちらを。
では次に、ではその3つの文章の○○と~を

「少なくとも1人の○○は~であるからと言って、全ての○○は~であるとは言えない」

という文に当て嵌めてみてください。
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例題
A社とB社が、とある家庭用品でシェアを奪い合っています。ネットの掲示板では、こんな噂が流れています。

・「A社は人を雇い入れて、自社にとって都合のいいことやB社の製品の悪口をブログなどに書かせ、さも個人が書いたように見せ掛けている。悪質な自作自演だ」
・「いや、その噂自体がB社によるA社への中傷だ。じつは自作自演をしているのはB社なのだ」


ところがある日、A社が本当に人を雇い入れてそのような自作自演をしていたことが大々的に報じられました。ここまでは事実だとします。さて、こんなことを言う人がいます。

「ほら見たことか、A社は自作自演をするようなずるい会社だったのだ。やはりB社はそんなことはしていないのだ」

さて、どうでしょう? この言い分、何か妙だと思いませんか。


ここがおかしい――
A社が自作自演をしていたからといって、なぜB社が自作自演をしていないと言えるのでしょうか?


解説
A社が自作自演をしていたという事実と、B社が自作自演をしているかも知れないという疑惑の真偽は、全く関係がありません。

A社の自作自演が明るみになる前に考えられた可能性は、

図1












a・「どちらも自作自演などしていない」
b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」
d・「A社もB社も自作自演をしている」

の4通りです。事実が分かった後はaとcが消えますが、現時点でもまだ

b'・「(A社はしているが)B社は自作自演をしていない」
d'・「(A社もしているが)B社も自作自演をしている」

の2通りが考えられるはずです。「A社が自作自演をしているかいないか」と「B社がしているかいないか」が無関係であることがお分かりいただけると思います。これらは高校の数学で習うところの独立事象です。

ところがなぜか時々、「対立関係にある2者のうち、常にどちらか一方が善で、一方が悪である」と、何でも善悪二元論で捉えてしまう人がいるようです。その人達はこの例のケースを

図2










b・「A社のみが自作自演をし、B社はしていない」
c・「B社のみが自作自演をし、A社はしていない」

の二者択一であるかのように誤解します。そしてA社の自作自演が明るみになった時点でcが消え、「B社は自作自演をしていない」という間違った結論に至るわけです。


ちょっと待った!
ただし、あくまで「現時点ではB社は自作自演をしていないと言い切れない」というだけです。B社が自作自演をしたという証拠も見つかっていない以上、そのような噂を軽はずみに信じたり、他人に流したりすべきではありません。そのような行為は言うなれば、推定無罪の原則に反します。

所詮、現時点では根も葉もない噂。せいぜいあなたが個人的に、A社だけでなくB社の製品を扱ったブログに対しても同様の注意を払う程度に留めるべきです。


筆者の見解
シーソーは、どちらか一方が上に来れば残る一方が下に来ます。どちらか一方が善なら、対立する側は悪。まるでシーソーのような考え方が、間違った結論を導き出す元になることがしばしばあります。

上記の例は非常に当たり前のことを言っているのですが、厄介な点は、対立している2者のどちらか一方に自分が属している場合、ついつい相手の側に非があると「ほら見ろ、そんな悪いことをするのは向こうに決まっている。自分達の側はそんなことをするはずがない」という、客観性を大きく損ねた思考に陥ってしまうことです。ここでも好き嫌いレベルの感情論が、論理的思考を妨げているわけです。

国家や人種、民族、政治主義、宗教など、昔から世界レベルの対立構図は多々あります。さらには世間を見渡すと、どのOSが好きかだとか、どこの会社のゲーム機が好きだとか、じつに些細なことまで対立の構図を作りたがる人がいるようです。それらの争いでもやはり、「一方がよければ一方が悪い」といったシーソーのような考え方がしばしば行われているのではないでしょうか。

さらに言えば、「そうした対立構図のどちらか一方に自分が属することに、並ならぬ執着を抱く」傾向を持つ人というのが、少なからずいるような気がしてなりません。


演習
今後しばらく、ネットや新聞、テレビなどで、あなたが対立構図を見聞きしたら、それをリストアップしてください(少なくとも3つ)。

※解答例は割愛。

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